2007年06月30日

新坂(鶯坂)の今昔

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新坂(鶯坂)は、

上野の台地から、寛永寺霊園と上野忍岡中学校(上野公園18-20)の間を通って、

JR鶯谷駅南口の前へと下ってゆく坂だが、その移り変わりはなかなか興味深い。

新坂に建てられている道標によると、

『明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。

明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂

のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、

「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』


ということである。

江戸時代には、細い道であったようだ。

一番上の版画(井上安治)は、坂が造られて間もない頃の風景で、

坂を下る左側は寛永寺霊園、右側は赤土の小山のようで、遠方には筑波山が描かれ、

いかにもすがすがしい空気が感じられる。

真ん中の写真は、明治40年頃に撮影されたもので、

電柱がたくさん立てられ、人々の生活感が漂う「赤土の急坂」の様子が伝わってくる。

この急坂は、明治45年に鶯谷駅が開通して跨線橋ができるまで続いたそうで、

現在の坂(下の写真)は写真の通りなだらかである。



posted by 善 三帆 at 10:55| 東京 雨 | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月21日

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posted by 善 三帆 at 17:49| 東京 晴れ | TrackBack(0) | 暮らし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月18日

中里橋

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中里橋とこの橋に続く山手線の踏切には昭和の名残が色濃く残っていた。

中里橋と踏切は、北区の中里1丁目と2丁目を繋いでいるが、

踏切の標識には「蒸気機関車のマーク」が使われており、

橋が架けられた昭和29年当時は蒸気機関車が走っていたのだろうか?



posted by 善 三帆 at 00:13| 東京 曇り | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月12日

昭和の木造長屋(谷中)

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台東区の寺町、谷中には、昭和の名残漂う木造の長屋が残っていて感慨深い。

上の長屋は西光寺の近くの細い路地にあり、戦前に建てられた長屋らしい。

ドラマ等にも時々登場するが、観光地ではなく生活の場なので、

ご迷惑のかからぬよう散策のついでに静かに拝見させていただくように

しなくてはいけない。下の写真は諏訪台通り啓運寺の斜め前。



posted by 善 三帆 at 14:50| 東京 晴れ | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

梔子の道(谷中)

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谷中、ヒマラヤ杉の「みかどパン」前から臨済宗「頤神禅院」

へと約100mほど真っ直ぐに続く梔子(くちなし)の道。

春夏秋冬、いつ訪ねても、都会の中とは思えない静寂な空気が漂っていて、

心和むものがあります。梅雨の時期を間近にして、

生け垣の梔子の白い花もほころび始めました。



posted by 善 三帆 at 12:23| 東京 晴れ | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三崎坂(谷中)

sansakizaka.jpg

谷中の三崎坂は、谷中4丁目と5丁目の間を貫く坂道である。

坂を挟んで、谷中小学校や大円寺、全生庵などがあり、

坂を下っていくと「不忍通り」の団子坂下、千駄木駅である。

坂道の道標には次のように書かれていました。

 「三崎(さんさき)」という地名の由来には諸説あるが、駒込

 ・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永二年(一

 七七三)の『江戸誌』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」

 といい、三〇年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいた

 ことにちなむという。



タグ:三崎坂 谷中
posted by 善 三帆 at 11:20| 東京 晴れ | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あじさいの坂道(田端)

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JR田端駅南口は、オレンジ色の屋根の小さな可愛らしい駅舎である。

その改札口を出ると目の前に、緩やかに右カーブしながら高台へと登っていく

「あじさいの道」が続いていて、青やピンクの花が今正にその盛りを迎えようとしていた。

梅雨に入ったら再訪してみたい。



posted by 善 三帆 at 09:19| 東京 晴れ | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月04日

新坂(鶯坂、根岸坂)

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新坂(鶯坂)は、JR鶯谷駅南口の前から上野忍岡中学校(上野公園18-20)の横を通って

上野の台地へと登っていく坂である。

明治45年に鶯谷駅が開通して跨線橋ができるまでは、赤土の急坂であったらしい。

坂の道標には次のように書かれていました。

 明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。

 明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」が

 この坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。

 鶯谷を通る坂だったので、「鶯坂」ともいわれ、

 坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。



posted by 善 三帆 at 00:51| 東京 晴れ | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月03日

清水坂(しみずざか)

shinizuzaka2.jpg清水坂(しみずざか)は、都立上野高校(台東区上野公園10-14 )の正門前を通って、

南南東へ真っ直ぐ約200m進み、池之端4-1-2付近で直角に右カーブし、

西南西へ約70m下って池之端4-2-3まで続く坂である。

坂の道標がカーブ部に立っており、

次のように書かれていました。

 坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、

 坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、

 この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。
posted by 善 三帆 at 21:17| 東京 晴れ | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明和の美女「笠森お仙」ゆかりの地

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江戸の三美人の一人、笠森お仙(1750〜1827)は

笠森稲荷社前の水茶屋「鍵屋」の看板娘で、

浮世絵師「鈴木春信」による多色刷り版画「錦絵」で有名になった実在の人物である。

お仙に関わる史跡を谷中や上野桜木に訪ねた。



お仙の父が営む水茶屋「鍵屋」は、谷中感応寺の塔頭(寺の中の寺)に

福泉院というお寺があり、この福泉院の境内に笠森稲荷があって、

その笠森稲荷の前で明和年間(1764〜71)営業していたらしい。



谷中の感応寺(現天王寺)は、日蓮宗・長耀山感応寺尊重院という古刹の大寺であったが、

元禄十二年(1699)に幕命により天台宗に改宗し、

天保四年(1833)には現在の護国山天王寺と改称している。

また感応寺は、「谷中感応寺の富突(宝くじのル−ツ)」でも有名な大寺で

寺域3万5千坪もあったそうである。



大寺であった天王寺であるが、明治初年に縮小され、

笠森稲荷のあった福泉院は取りつぶされてしまい、

笠森稲荷の本尊は、寛永寺の子院である養寿院(台東区上野桜木1-15-3)に移され、

家康守護の托枳尼天(だきにてん)として祀られている。



笠森稲荷はもともと、幕府の御賄方「倉知甚四郎」が感応寺の境内の一部を借り、

笠森稲荷を奉ったことに由来する。

笠森稲荷は笠森托枳尼天(だきにてん)とも称し、徳川家康が病で苦しんだ時、

倉知甚左衛門が平癒祈願し効験があったらしい。

笠森稲荷に願を掛ける人々は、前の水茶屋で「土の団子」を買って供え、

成就すると「米の団子」を買いお礼として供えたそうである。



取りつぶされた福泉院の跡地には功徳林寺(谷中7-6-9)が建ち、

その境内に旧跡としての笠森稲荷の祠が造られた。

また、「お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀」しているという谷中の大円寺(谷中3-1-2)には、

「笠森阿仙の碑」「鈴木春信の碑」がある。

というわけで、お仙のゆかりの地は谷中界隈に三ケ所ある。



お仙については、士族の養女になった後、明和7年(1770)二十歳の時、

笠森稲荷に縁の深い倉知家の倉知政之助(幕府お庭番)に嫁ぎ、

文政10年(1827)没し、四谷の正見寺の倉知家の墓地に葬られた。

正見寺は大正2年に中野に移転し、倉知家の墓地には「お仙」の名も刻まれている。

正見寺は、中野区上高田1-1-10



posted by 善 三帆 at 12:43| 東京 霧 | TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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