新坂(鶯坂)は、
上野の台地から、寛永寺霊園と上野忍岡中学校(上野公園18-20)の間を通って、
JR鶯谷駅南口の前へと下ってゆく坂だが、その移り変わりはなかなか興味深い。
新坂に建てられている道標によると、
『明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。
明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂
のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、
「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』
ということである。
江戸時代には、細い道であったようだ。
一番上の版画(井上安治)は、坂が造られて間もない頃の風景で、
坂を下る左側は寛永寺霊園、右側は赤土の小山のようで、遠方には筑波山が描かれ、
いかにもすがすがしい空気が感じられる。
真ん中の写真は、明治40年頃に撮影されたもので、
電柱がたくさん立てられ、人々の生活感が漂う「赤土の急坂」の様子が伝わってくる。
この急坂は、明治45年に鶯谷駅が開通して跨線橋ができるまで続いたそうで、
現在の坂(下の写真)は写真の通りなだらかである。
2007年06月30日
新坂(鶯坂)の今昔
2007年06月21日
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2007年06月18日
2007年06月12日
昭和の木造長屋(谷中)
三崎坂(谷中)
あじさいの坂道(田端)
2007年06月04日
新坂(鶯坂、根岸坂)
2007年06月03日
清水坂(しみずざか)
明和の美女「笠森お仙」ゆかりの地
江戸の三美人の一人、笠森お仙(1750〜1827)は
笠森稲荷社前の水茶屋「鍵屋」の看板娘で、
浮世絵師「鈴木春信」による多色刷り版画「錦絵」で有名になった実在の人物である。
お仙に関わる史跡を谷中や上野桜木に訪ねた。
お仙の父が営む水茶屋「鍵屋」は、谷中感応寺の塔頭(寺の中の寺)に
福泉院というお寺があり、この福泉院の境内に笠森稲荷があって、
その笠森稲荷の前で明和年間(1764〜71)営業していたらしい。
谷中の感応寺(現天王寺)は、日蓮宗・長耀山感応寺尊重院という古刹の大寺であったが、
元禄十二年(1699)に幕命により天台宗に改宗し、
天保四年(1833)には現在の護国山天王寺と改称している。
また感応寺は、「谷中感応寺の富突(宝くじのル−ツ)」でも有名な大寺で
寺域3万5千坪もあったそうである。
大寺であった天王寺であるが、明治初年に縮小され、
笠森稲荷のあった福泉院は取りつぶされてしまい、
笠森稲荷の本尊は、寛永寺の子院である養寿院(台東区上野桜木1-15-3)に移され、
家康守護の托枳尼天(だきにてん)として祀られている。
笠森稲荷はもともと、幕府の御賄方「倉知甚四郎」が感応寺の境内の一部を借り、
笠森稲荷を奉ったことに由来する。
笠森稲荷は笠森托枳尼天(だきにてん)とも称し、徳川家康が病で苦しんだ時、
倉知甚左衛門が平癒祈願し効験があったらしい。
笠森稲荷に願を掛ける人々は、前の水茶屋で「土の団子」を買って供え、
成就すると「米の団子」を買いお礼として供えたそうである。
取りつぶされた福泉院の跡地には功徳林寺(谷中7-6-9)が建ち、
その境内に旧跡としての笠森稲荷の祠が造られた。
また、「お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀」しているという谷中の大円寺(谷中3-1-2)には、
「笠森阿仙の碑」「鈴木春信の碑」がある。
というわけで、お仙のゆかりの地は谷中界隈に三ケ所ある。
お仙については、士族の養女になった後、明和7年(1770)二十歳の時、
笠森稲荷に縁の深い倉知家の倉知政之助(幕府お庭番)に嫁ぎ、
文政10年(1827)没し、四谷の正見寺の倉知家の墓地に葬られた。
正見寺は大正2年に中野に移転し、倉知家の墓地には「お仙」の名も刻まれている。
正見寺は、中野区上高田1-1-10



